オルヴァル修道院- Abbey of Nortre Dame d’Orval-
Abbaye d’Orval Orval, n°1, B-6823 Villers-devant-Orval tel [32] 61 31 10 60 オルヴァルに居を定めた最初の修道士達は、1070年に南部イタリアからこの地にやってきました。 しかし、修道院を切り拓いた修道士達は、理由はわかりませんが、40年ほど後にそこを立ち去ってしまったのです。 彼らに代わってカノン派(Canons)の小さなコミュニティがやって来て、前任者によって始められた修道院の建設を完成させました。1124年に教会が完成し、ヴェルドゥンの司教(Bishop of Verdun) によって清めの儀式が行われました。 しかしその後間もなくしてカノン派の人々は経済的な困難に陥り、その状況から彼ら自らシトー修道会(Order of Cîteaux)に加わることになりました。 シトー修道会ではオルヴァル修道院の再興を、最も古くからの同派の下部組織であるシャンパーニュ地方のトロワ・フォンテーヌ修道院(Abbey of Trois-Fontaines)に委ねました。 1132年3月9日にコンスタンティン(Constantin)に率いられた7人の修道士達がトロワ・フォンテーヌからオルヴァルに到着しました。 修道士とカノン派の人々はひとつの共同体にまとまって、直ちにシトー修道会の慣習に応じた建物の改造に取り掛かりました。 新しい教会が1200年までに完成し、シトー修道会はまた農園や森林地を拓きました。 自給自足のためのそういった形の労働が、彼らに自らの戒律にそった生活を可能にしたのです。
1252年、修道院は大火事によって焼失してしまい、多くの建物は完全に建て直さねばなりませんでした。 苦難の状況があまりにも深刻であったので、一時期シトー派の権威筋は修道院の実情を隠蔽しようとまでしたほどです。
17世紀に入るとオルヴァル修道院の発展は最高潮に達し、1619年には全体で43人を数えました。 ベルナール・ド・モンガヤールの後、まもなく、新たに大きな災難がオルヴァルを襲います。 1637年8月、30年戦争の真っ只中で修道院とその財産が軍隊によって破壊されてしまったのでした。 再建は不安定な情勢のもとで17世紀の終わりまでかかりました。
1789年、フランス革命が勃発し、オルヴァルの総ての所有財産がたちまち没収されてしまいました。 1793年6月23日、革命軍の兵隊達によって修道院は略奪され完全に焼失してしまったのでした。 1795年11月7日に共同体は公にもつぶされてしまい、そのメンバーは解散させられました。 1926年になって、デ・ハーレン一族 (de Harenne) がオルヴァルの廃墟と周辺の土地をシトー修道会に提供することを申し出たことで、その地に修道院生活が再開できるようになったのです。 新たな共同体設立の務めを帯びて修道士の一団がフランスからオルヴァルに送られてきました。 フランスのラ・トラップ修道院(La Trappe Abbey)の修道士であったドム・マリーアルベルト・ヴァン・デル・クレーセン(Dom Marie-Albert van der Cruyssen) が再建のための多大な仕事を引き受け、新しい修道院は建築家のヘンリー・ヴァース(Henry Vaes) の設計図によって短期間のうちに建設されたのでした。 オルヴァルの長い歴史を通じて、初期の段階から修道院で醸造所が操業されていた証拠があります。 修道士達はビール成分に滋養分が多いことを高く評価しており、ビールのことを「液体のパン」とよく称していました。 1931年に醸造所が建てられ、修道士の監督のもとで醸造所で働くための信者が雇用されました。 その頃修道院では既にパンやチーズを生産していました。 最初の主任醸造技師はパッペンハイメル(Pappenheimer)という名のドイツ人でした。 オルヴァル・ビールの非常に特色のある味わいは多分にパッペンハイメル氏とベルギー人のホノレー・ヴァン・ザンデ(Honoré Van Zande)に負うところが大きいと言えます。 彼らは同時期に醸造所に居合わせていたのですが、自分たちの醸造方法や英国流の「ドライ・ホッピング」(ビールの熟成段階で新鮮なホップを投入する方法)といったような、いくつかのあまり知られていない技術も大胆に使っていきました。
輸入元 小西酒造より
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